2005年1月31日

2005年1月

絶版本 05/1/31
廉価版ホッケー映画DVD 05/1/28
クリス・ドゥルーリー 05/1/25
ピエール・アモワイヤル 05/1/22
人生を変えた映画 05/1/19
疑惑のゴールの真相 05/1/16
伝記映画が面白い 05/1/14
ウィリアム・カペル 05/1/13
ミロスラフ・シャターン 05/1/11
映画「海猫」とハーディの文学 05/1/10
ブーリンの壁 05/1/7
映画「哀愁のシェリー」とリーフス 05/1/5
The Cup Visits Buffalo 05/1/4
ブルー・アンド・ゴールドの時代 05/1/2
新春新着映画紹介 05/1/1
ラフォンテーヌのチャリティOB試合 04/12/31
なぜかピッツバーグ 04/12/30
バッファローは美しい川 04/12/29



絶版本 05/1/31

 昨年、私の訳した本が3冊絶版になった。翻訳書は片手の指で数えるほどしか出ていないので、これでほとんど消えたことになる。
 しかも、この3冊は個人的にも気に入っていた作品だった。今ならまだ、比較的楽に手に入るので、読んでみたい人のためにご紹介。

1 ニコラス・シェイクスピア「テロリストのダンス」(1995年原書発行、翻訳は99年、新潮文庫)。
 南米育ちのイギリスの作家がペルーのテロ組織センデロ・ルミノソを題材にして描いたサスペンス・ラブストーリー。ペルーをモデルにした国で、テロ組織を追う刑事が娘の通うバレエ教室の先生に心をひかれていく。次々と起こるテロ事件を追いながら、ペルーの社会問題を織り込んでいく緻密で感動的な物語。
 アメリカの俳優ジョン・マルコヴィッチがこの小説を気に入り、映画化権を取得して、初めての監督作品にした。主演はハビエル・バルデム。2003年に全米公開されたが、日本ではビデオスルー(DVDもあり)に終わってしまった。そのため、原作も絶版に。

2 ラウル・ホイットフィールド「ハリウッド・ボウルの殺人」(1931年原書発行、翻訳は2000年、小学館文庫)。
 ダシール・ハメットの友人だったハードボイルド作家ホイットフィールドの代表作。サイレントからトーキーに移行したばかりのハリウッドを舞台に、次々と殺人事件が起こる。表向きは強がっているが、心は意外にソフトな主人公の私立探偵、男まさりで魅力的な女秘書、妖艶なスター女優など、人物も魅力的。突き放したような文体からただよう人間関係の悲しみが胸にしみる。

3 ロバート・ウェストブルック「インソムニア」(原書、翻訳とも2002年発行、新潮文庫)。
 2002年公開の同名映画のノベライズ。ノルウェー映画「不眠症」(ビデオ、DVDあり)のハリウッド・リメイクで、殺人事件の捜査で白夜のアラスカにやってきたLAの刑事が、犯人を追う中で間違って同僚を殺してしまう。犯人が殺したと嘘をついた彼は、罪の意識から不眠症に悩まされるようになり、やがて、事実を知った犯人にも翻弄される。アル・パチーノが演じた主人公の苦悩と、ヒラリー・スワンクが演じた若い女性刑事の成長が感動を呼ぶ。

 以上、3冊は、まだ書店店頭やネット書店に在庫がある場合は、そこで買えます。新潮文庫は古書店に大量に出回っていて、かなり安く買えます。「ハリウッド・ボウルの殺人」は希少なので、古書は定価より高くなっていたりします。ホイットフィールドの作品はもう1つ、ピッツバーグが舞台の「グリーン・アイス」(小学館、単行本)がありますが、これも近いうちに絶版になるでしょう。



廉価版ホッケー映画DVD 05/1/28

 「1枚買って1枚タダ」といった、2枚でいくらの廉価版DVDがたくさん出ているが、ホッケー映画「サドン・デス」(95年)と「スラップ・ショット2」(02年)が税込3129円で買えるシリーズが出た。
 実はこの2枚、出たらすぐに買おうと思っていたのだけど、「サドン・デス」に特典映像が何もついていないので、考えてしまっている。
 この映画の1番の白眉は、ピッツバーグ・ペンギンズの本拠地、メロン・アリーナ(当時は違う名前だったようだ)の天井が福岡ドームのように開いて、そこにヘリが縦に落ちていくシーンである。
 こういうシーンはぜひともメイキングが見たいものなのだ。多分、ミニチュアだろうけどね。
 もう1つの白眉は、リュック・ロバタイユのゴール・シーンである。ずいぶんゆっくり滑っていってゴールしているように見えるかもしれないが、あれはもちろん、スローモーション。爆発まであと何秒、とかいうときには、それをできるだけ引き伸ばすのが映画の手で、その分動作はスローモーションになるのだ。しかも、このシーン、私の見た感じでは、滑っていってゴールして、そのあと、チームメイトや観客がバンザイするシーンまでワンカットで撮って、それをスローにし、そこに主役や悪役のシーンを小刻みにはさんで緊迫感を盛り上げているようなのだ。
 いくらプロでも1回のテイクでゴールを決めるのはむずかしいと思う。ロバタイユが何度テイクを撮ったのか、聞いてみたいものだ。
 3つ目の白眉は、「ヴァン・ダム、ゴーリーしてる場合か」のシーン。これは笑えます。
 以上はすべて後半のシーン。前半は金も手間もかけてないのがミエミエで、特に悪役のシーンのセットのしょぼさといったらほとんどC級映画。しょうもないビンボー映画だなあ、このまま最後まで行くのだろうか、と思ったら、後半、がぜん金と手間がかかりだし、一気にA級映画並みになったのには驚いた。要するに、後半に金がかかるので、前半にまわす予算がなかったということだろう。前半よくて後半しょぼい映画よりはよっぽど賢い予算の使い方である。

 「スラップ・ショット2」はまだ見たことがないので、ぜひ見たいのだが、こちらはメイキングやハンソン兄弟のインタビューがついている。ほかの作品と組み合わせて買うか、やっぱり「サドン・デス」にするか、考えてしまうなあ。
 石丸電気では、この種の2枚でいくらのものは、シリーズやメーカーを超えて、2枚で2780円で売っている。だから、本家「スラップ・ショット」(77年)と「スラップ・ショット2」をこの値段で買うのも可能。本家「スラップ・ショット」はハンソン兄弟の音声解説が楽しい。
 本家「スラップ・ショット」の中に、主役のポール・ニューマンが移動のバスの中で「ザ・ホッケー・ニュース」を開くシーンがある。「ザ・ホッケー・ニュース」は今は雑誌の形をしているが、当時はまったく新聞の形をしていたのだ。そして、第1面の左側に、バッファロー・セイバーズの選手の写真が大きく出ている。右側は多分、フィラデルフィア・フライヤーズだろう(うちはテレビ画面が小さいので、細部を見るのが大変なのだ)。この2チームは映画ができる2年前にスタンレー・カップ・ファイナルに出場している(フライヤーズが優勝)。「サドン・デス」は92年のファイナル、ピッツバーグ・ペンギンズ対シカゴ・ブラックホークスの再現なのだが、「スラップ・ショット」はなにげに75年のファイナルへの暗示が出ているというわけ。
 本家「スラップ・ショット」は、ハリウッド映画が今ほど大金をかけていなかった時代に、創意工夫とウィットとユーモアで作られた傑作。ホッケー選手の奥さんが脚本を書き、ダンナが出演とコンサルタントを担当、ペンシルヴェニア州にあったジョンズタウン・ジェッツ(今はジョンズタウン・チーフス)の選手が大挙出演しているという本格派。ふざけているように見えて、とても奥の深い映画なのである。映画に登場するチャールズタウン・チーフスのジャージが、セイバーズの古いジャージと色が同じ(青と黄色)なのも興味深い。



クリス・ドゥルーリー 05/1/25

 03年オフに、カルガリー・フレームズからトレードされて、セイバーズにやってきたクリス・ドゥルーリー。最初のチーム、コロラド・アバランチでは新人賞を受賞、優勝も経験し、世界選手権ではチームUSAのキャプテンをつとめ、チェリオス引退後はオリンピックなどの大きな国際大会でもキャプテンをつとめることが予想されている彼は、セイバーズでも、当然、キャプテン候補として期待されている。
 03/04シーズンはキャプテンは月替りだったが、ドゥルーリーは11月と3月の2回、キャプテンをつとめた。
 しかし、成績はどうかというと、これまでのキャリアで実は最低。同じ年に来たダニエル・ブリエアがチームのトップ・スコアラーになり、その明るい性格でファンから絶大な人気を得てしまったのに対し、イマイチのドゥルーリーはファンのバッシングを浴びた。
 特に、初めての子供が生まれた12月ごろが絶不調だったのがまずかった。
 出産予定日になってもなかなか生まれず、気もそぞろのドゥルーリーは、出産に立ち会えないから遠征に行きたくないと言ったとか言わないとか(真偽のほどは不明)。
 おかげで、「ドゥルーリーは出産休暇は終わったのか」などと揶揄される始末。
 これが日本だったら、子供が生まれるからプレーに身が入らないとはなにごとだ、などということになるのだろうけれど、北米のファンはそうは思わないらしい。父親になるのは一生にそう何度もあることじゃない、だから、多少、プレーに身が入らなくてもいいんだ、という意見の方が多かったのだ。
 もっとも、「ホッケー選手はオフに子供が生まれるようにしろ」という意見もあって、笑ってしまった。
 ドゥルーリーはもともと、ガンガン点を取るタイプではなく、むしろディフェンスに優れたフォワードだから、ゴールやアシストの成績だけでは判断できない。それに、彼のリーダーシップはファンも認めている。まだ来たばかりなのだし、東カンファレンスは初めてなのだから、と弁護する人もいる。
 ドゥルーリーはコロラドでは人気があったのか、彼のあとを追ってセイバーズを応援しているデンヴァーのファンがいる。昨年夏のワールドカップのときは、デンヴァーのメディア2つが彼を取材した。掲示板にあった、デンヴァーのファンの次のような書き込みには思わず、よよっとなってしまう。

"Dear Mr. Drury. Please come back to Colorado. Sincerely, Denver."



ピエール・アモワイヤル 05/1/22

 「人は誰でも、生まれつき、好きな楽器が決まっている」と、ヴァイオリニストのイツァーク・パールマンが言うのを聞いて、大きくうなずいたことがある。
 私の好きな楽器、それはヴァイオリンだ。
 別に子供の頃からヴァイオリンを習っていたわけではない。特に親がレコードを聴かせたわけではない。でも、昔から、ヴァイオリンの音色が一番好きだった。
 好きというのは弾けるというのとはまったく違うので、数年前に買った本物のヴァイオリン(ただし、すごく安いもの)は、時々取り出して簡単な曲を弾く程度だけど、CDはかなりもっている。好きなヴァイオリニストも多数。一番好きなのはやはり、ヤッシャ・ハイフェッツ。
 でも、あまり有名ではない、フランスのピエール・アモワイヤルというヴァイオリニストもかなり好きである。
 アモワイヤルは最初、ピアノを習っていたのだそうだが、7歳のときにハイフェッツのレコードを聴いてヴァイオリニスト志望に変わり、大学はわざわざハイフェッツのいるアメリカ・南カリフォルニア大学に入学。ハイフェッツのもとで5年間学んだあと、プロ・デビューした。
 フランスのレコード会社エラートと契約し、順調にコンサートや録音をしていたアモワイヤルだが、80年代後半、とんでもない事件が彼を襲った。コンサートに出かけたイタリアで、なんと、愛器ストラディヴァリウスを盗まれてしまったのだ。
 ヴァイオリニストにとって、ヴァイオリンは自分の声である。ヴァイオリンはひとつひとつ音色が違うので、楽器が変わると音も変わってしまうのだ。アモワイヤルのストラディヴァリウスは澄みきった高音に独特の美しさがあり、それをアグレッシヴに弾く彼の個性と楽器の音色がユニークな音を作り出していた。
 幸い、有能な弁護士の力で、数年後に楽器は戻ってきた。90年代の初めにはイギリスの大手デッカと契約、フランスのピアニスト、パスカル・ロジェとブラームスやフォーレのヴァイオリン・ソナタを録音したりしていたが、あまり売れなかったのか、その後はマイナーレーベルのハルモニア・ムンディに移って、アメリカのピアニスト、フレドリック・チューとグリーグやプロコフィエフのヴァイオリン・ソナタを録音している。
 アモワイヤルの演奏はあまり一般受けするものではないし、超一流というわけでもない。だが、彼にはほかの演奏家にないユニークさがある。なめらかな美しさなど拒否するような、そのとんがった演奏にひかれる人にとっては、アモワイヤルはワン・アンド・オンリーのヴァイオリニストである。



人生を変えた映画 05/1/19

 好きな映画は数あれど、私の人生を変えた映画を1本選べと言われたら、迷うことなく「バリー・リンドン」を選ぶ。1975年の映画。監督スタンリー・キューブリック。主演ライアン・オニール。原作ウィリアム・M・サッカレー。アカデミー作品賞などにノミネートされた文芸映画の傑作。
 実を言うと、この映画を見て、私はイギリス文学志望になったのだ。
 それまでの私は文学はアメリカとフランスが好きだった。中学生の分際でアルベール・カミュを愛読し、アンドレ・ジッドとかも好きだったし、ヘミングウェイなど20世紀前半のアメリカ文学もよく読んでいた。そのほか、アメリカのSFやミステリーも好きで、特にお気に入りはアイザック・アシモフとウィリアム・アイリッシュ(コーネル・ウールリッチ)。
 そんなわけで、卒論は20世紀のアメリカ文学にしようと思っていたのである。
 しかし、「バリー・リンドン」を見て、19世紀のイギリス文学に目覚めてしまった。
 サッカレーはディケンズと同時代の小説家。代表作は「虚栄の市」で、1930年代に1度、映画化され、最近、また映画になっている(こちらはまだ日本公開されていない)。ナポレオン時代を舞台に、対照的な2人の女性の生きざまを描いたものだ。
 「バリー・リンドン」はそのサッカレーの最初の長編小説。キューブリックが映画化するまでは原作はほとんど知られていなかった。キューブリックはスティーヴン・キングの「シャイニング」を自分流の解釈でまったく違う映画に仕上げてしまって、キングの怒りを買ったが(でも、映画は傑作)、この「バリー・リンドン」は原作の雰囲気をよく伝えた忠実な映画化である。
 舞台は18世紀ヨーロッパ。アイルランドの若者が軍隊に入ったり女性をかどわかしたりして出世していくが、やがて破滅を迎える物語だ。
 私はサッカレーと「虚栄の市」のことは知っていたが、本は読んだことがなかった(当時、岩波文庫で出ていた「虚栄の市」の翻訳は戦前の古い訳で、とても読めなかったのだ)。しかし、「バリー・リンドン」に魅せられた私は、映画に合わせて翻訳された原作を読み、そのあと、原書も手に入れた。翻訳は単行本になったときの原書がもとになっているが、私の手に入れた原書は雑誌に連載されたときの原稿をもとにしていた。そして、映画はこの雑誌連載の方をもとにして作られていたのだ。
 雑誌連載と単行本の違いを調べたり、サッカレーの他の小説を原書で読んだりしているうちに、すっかりイギリス文学好きになってしまった私は、この世界ともっと深くつきあってみたくなったのである。そんなわけで、大学院に行き、今度はE・Mフォースターという作家にひかれ、研究しているうちに、「インドへの道」や「眺めのいい部屋」などが次々と映画化された。
 そんなふうにして、映画や文学が私の仕事の一部になっていったのである。



疑惑のゴールの真相 05/1/16

 1999年6月、バッファローのアリーナのスタンドはチームカラーの赤に染まった。この年、スタンレーカップ・ファイナルに勝ち残ったのは、バッファロー・セイバーズとダラス・スターズ。やがてこのファイナルは、ハルの疑惑のゴール、あるいは、ハルのノー・ゴールとして知られる問題の結末を迎えることになる。
 事件はバッファローでの第6戦で起こった。セイバーズの2勝に対してスターズは3勝。ここでスターズが勝てば優勝、という試合だったが、どちらも譲らず、オーバータイムに突入していた。そして、前方に倒れたセイバーズのゴーリー、ドミニク・ハシェックの前に足を踏み出したスターズのブレット・ハルがパックを打ち、ゴール。スターズの優勝が決まった。
 しかし、その10分後、セイバーズはハルの足がパックよりも先にクリース(ゴール前方の青い部分)に入ったのではないかとして、ビデオ・リプレイを要求した。しかし、NHLはリプレイを拒否。その後、リンディ・ラフ・ヘッドコーチがコミッショナー、ゲイリー・ベットマンのオフィスを訪ねて再度抗議したときには、ベットマンは横を向いてしまったという。
 当時、NHLには、パックより先にクリースに足が入ってはいけないというルールがあり、レギュラーシーズンはもちろん、プレーオフでは特にきびしくこの点がチェックされていた。にもかかわらず、優勝のかかったこの試合だけ、なぜかビデオ・リプレイのチェックがなされなかったのである。
 「ビデオ審判員は寝ていたんだろう」とハシェックは言ったというが、セイバーズの試合を逐一記録しているファンのサイトによると、審判員はこのとき、お茶しに行っていたらしい(!)。
 まあ、審判員も人間だから、ぼやぼやしているときもあれば、トイレに行きたいときもあるだろう。それならそれで、間違いを認めて、やり直せばいいのである。スターズの選手がやり直しをいやがるとは思えない。
 この事件については、その後、証拠写真やらビデオやらが出てきて、ハルの疑惑のゴール、ハルのノー・ゴールと言われ続けているが、これがなければセイバーズが優勝したかのように言うのは間違っている。なぜなら、セイバーズが優勝するにはこの第6戦を勝ち、次にダラスに移動して、第7戦にも勝たなければならないからだ。また、上記のファンのサイトによると、このファイナルではハシェック以上にスターズのゴーリー、エド・ベルフォアが絶好調で、疑惑のゴールがなくてもスターズが優勝した可能性が高かったのだそうだ。
 結局、NHLが正しい行動をしなかったために、セイバーズに遺恨を残したばかりでなく、ハルの記録とスターズの優勝にもケチをつけてしまったことになる。

 セイバーズについて知り始めた頃、私はこの疑惑のゴールがチームの一番の悲劇なのだと思い込んでしまった。セイバーズが登場するある映画で仕事をしたときも、この事件が決定的な不幸であるかのような文章を書いてしまった。しかし、セイバーズについて知るにつれて、疑惑のゴールはそれほど重要でないことがわかってきた。セイバーズの本当の不幸はこのあと起こるのであり、ファンにとってはそっちの方がはるかにショックで悲劇的な悪夢なのだ。それに比べたら、疑惑のゴールなどかわいいものと言っていい。本当の悲しみとは口に出せないものであり、それゆえに人には理解されないということを私は知った。
 たしかに、ファンの中には、疑惑のゴールをいまだに恨んでいる者もいる。しかし、多くのファンは、疑惑のゴールがなくてもスターズが優勝した可能性が高いこと、そして、ハルとスターズには何の責任もないことがわかっている。あの年、セイバーズは東カンファレンス7位(ポイントでは6位)で、北東ディヴィジョンの上位3チームを敗ってファイナルに進出したのだ。75年以来、2度目のファイナル進出で、町は沸き返っていたという。ファンは疑惑のゴールよりも、ファイナルに出られた喜びの方を多く語っている。終わりよければ万事よしにはならなかったが、それでも、カンファレンス優勝とファイナル進出自体は、すばらしい思い出なのだ。



伝記映画が面白い 05/1/14

 昨年暮れから今年の春にかけて、音楽芸能関係の著名な人物の伝記映画が続々登場する。どれも見応えのある映画だが、その内、劇作家ジェームズ・バリの「ネバーランド」はこのブログで、作曲家コール・ポーターの「五線譜のラブレター」は別のところで書いたので、ここではそれ以外の3つの作品を紹介しよう。

「ライフ・イズ・コメディ!」
 「ピンク・パンサー」シリーズでおなじみの俳優ピーター・セラーズの伝記。ジェフリー・ラッシュがセラーズを、シャーリーズ・セロンが妻で女優のブリット・エクランドを、エミリー・ワトソンが最初の妻を、ジョン・リスゴーがブレイク・エドワーズ監督を、スタンリー・トゥッチがスタンリー・キューブリック監督を演じるという豪華版。おまけに、セラーズの主演映画が次々と再現されるという、映画ファンには見逃せない内容。大人になりきれない未熟な彼の実像と、どんな役にもなりきってしまうカメレオンのような才能のアンバランスがすごい。登場人物は映画ファンにはおなじみの人ばかりだが、それを演じる俳優たちもみごと。

「レイ」
 昨年、亡くなったレイ・チャールズの伝記映画。ジェイミー・フォックスのそっくりさんぶりが話題だが、麻薬中毒や女性遍歴、黒人差別、少年時代のトラウマなど、暗い内容を扱っているわりにはさらりとした描き方をしている。やっぱり、お母さんはエライ、というお話。

「ビヨンドtheシー」
 歌手のボビー・ダーリンの伝記。タイトルは「ラ・メール」の英語題名で、この手のスタンダード・ナンバーで人気を得たダーリンが、表向きの自分とは違う本当の自分を追い求める物語。前半はボビーのわがままな性格と、それに苦労する妻で女優のサンドラ・ディーが描かれるが、後半は、ロバート・ケネディに心酔して政治活動をしたり、ヴェトナム戦争の反戦歌を歌ったりするボビーが描かれる。そこにはボビー・ダーリンという芸名の彼と、本当の彼との葛藤があり、その背景にあるのは実は……おっと、ここはネタバレなので言えない。
 監督・主演のケヴィン・スペイシーはボビー・ダーリンによく似ていて、歌も自分で歌っている(うまい)。最後に「政治的な意図はない」という字幕が出るが、反ブッシュと反戦も感じさせる映画。



ウィリアム・カペル 05/1/13

 私の1番好きなピアニストは、フランスのサンソン・フランソワ(1924-70)だが、彼については書きたいことがたくさんあるので、今日は2番目に好きなアメリカのウィリアム・カペル(1922-53)を紹介しよう。
 10代でコンクールに優勝、ピアニスト・デビューしたカペルは、21歳で大手レコード会社のRCAと契約、アメリカ生まれの初の一流ピアニストとして注目を浴びた。
 当時のクラシック界では、一流と見なされていたのはヨーロッパ出身の演奏家ばかりで、特にアメリカはハイフェッツ、ルービンシュタインなど、ヨーロッパから移住してきたユダヤ系の巨匠たちが活躍していた。カペルも東欧からの移民の両親のもとに生まれたのだが、早くからその才能を認められる一方で、「アメリカ人のピアニスト」として蔑みの目で見られることも多かったらしい。
 気性の激しいカペルは、そうした見方にいつも反発していた。特に自分に対する批判には過敏に反応した。あるときなど、自分をけなしたジャーナリストと殴り合いのけんかになりそうになり、大事な指を痛めるのでは、と心配した妻が必死で止めたという。
 カペルはその卓越したテクニック、かっと燃え上がるような激しく情熱的な演奏で、ポーランド出身の巨匠、アルトゥール・ルービンシュタインの弟子と間違えられることもあった。カペルはルービンシュタインには師事していないが、世話になったことはある。まだ10代の半ばだった頃、決して裕福とは言えなかった両親が息子によいピアノを買ってやるために、音楽家のパトロンになることで有名な富豪の夫人のもとを訪れたときのことだった。夫人はカペルの才能を知るために、知り合いのルービンシュタインに演奏を聴いてやってくれと頼んだ。ルービンシュタインは、ニキビ面の生意気そうな少年に親しみは感じなかったが、彼の演奏には感服し、夫人に「あの子はピアノを2台買ってやる価値がある」と言ったそうな。
 ハチャトゥリアンのピアノ協奏曲で有名になったカペルは、その後もラフマニノフやプロコフィエフなど、ロシアの作曲家のピアノ協奏曲を得意とした。アメリカだけでなく、ヨーロッパや南米でコンサートを重ね、華やかで力強いピアノ協奏曲を披露していたが、20代の後半からは独奏曲や室内楽にも力を入れ始めた。ショパンのピアノソナタやマズルカ、シューベルトやリストのピアノ曲、ドビュッシーの「子供の領分」など、さまざまな曲に挑戦している。中でも、リストの有名な「メフィスト・ワルツ」は、まるで悪魔が現れてきそうなすさまじい演奏。ショパンのピアノソナタ第3番もいい。世紀のヴァイオリニスト、ヤッシャ・ハイフェッツと協演したブラームスのヴァイオリン・ソナタ第3番は、ぞくぞくするようなすばらしさだ。
 1953年、カペルはオーストラリアへ演奏旅行に出掛けた。その帰途、彼の乗った飛行機は濃霧の中、サンフランシスコの丘に激突。カペルは帰らぬ人となった。享年31歳。その1週間前、オーストラリアのコンサートで演奏したショパンのピアノソナタ第2番(葬送)がCD化されている。
 カペルの録音はすべてモノラルである。彼の死後すぐに、レコードはステレオになり、30センチLPの時代になった。今はそのモノラルの録音を、CDで聴くことができる。98年には9枚組の全集も出た。



ミロスラフ・シャターン 05/1/11

 それは04年3月、セイバーズがプレーオフめざして必死にアイランダーズを追いかけていたときに起こった。試合の最中に、チームのエースであるシャターンが突然、グローブを取り、携帯電話を耳にあてたのである。3月中旬のトレードのデッドラインまでにシャターンはトレードされる、彼もそのことを知らされている、という噂があったから、記者たちは、早くトレード先を決めてほしいというシャターンのポーズだと思った。
 しかし、シャターンがトレードされることはなかった。携帯電話の件は、トレードの噂に対するジョークだったらしい。「トレードの話がないことはチームメイトはみんな知っていた」と、仲間のある選手が後に語っている。

 スロバキア出身のミロスラフ・シャターンは93年にエドモントン・オイラーズにドラフトされ、97年3月にセイバーズにトレードされた。以後、6シーズン、セイバーズのトップ・スコアラーの地位を守り、国際大会ではスロバキア・チームのキャプテンをつとめ、母国では国民的英雄になっている彼だが、03/04シーズンの成績は芳しくなかった。シーズン直前まで年俸交渉でホールドアウトを続け、ぎりぎりになってようやく500万ドル×2年の契約を結んだものの、まるで結果が出ない。チームを破産から救った新オーナーもついに激怒、「トレードしろ!」と一喝。そこでGMがシャターンにトレードを希望するかどうか聞いたところ、シャターンは残りたいと言ったので、トレードの話はなくなったのだそうだ。しかし、オーナーの鶴の一声が一人歩きし、トレードの噂がどんどん広まった、というのが真相らしい。
 結局、シャターンは6シーズン守ったチームのトップ・スコアラーの地位を、前年3月にコヨーテズからやってきた若いダニエル・ブリエアに奪われ、かろうじてゴール数だけはトップを守った。ロッカールームを引き払う日、プレーオフは逃したものの、多くの選手は晴れやかな表情だったが、シャターンだけは暗い顔をしていたという。

 4月から5月にかけて、チェコで行なわれた世界選手権では、シャターンはスロバキア・チームのキャプテンとして出場した。3位決定戦で、スロバキアは同じセイバーズのクリス・ドゥルーリーが率いるチームUSAとあたった。どちらも点を入れることができず、ついにシュートアウトでUSAが勝った。シュートアウトではシャターンもドゥルーリーもゴールを決めたが、チームとしては、今度はシャターンはドゥルーリーに負けてしまったわけだ。
 8月から9月に北米で行なわれたワールドカップでは、スロバキアは全敗、シャターンは1ポイントもあげられなかった。それでも、シャターンはスロバキア・チームのキャプテンとして、乱闘も辞さず、発言も勇ましかった。それを見ていたバッファローのメディアやファンからは一斉に不満の声があがった。
「シャターンはスロバキア・チームだとあんなに勇ましいのに、なんでバッファローではおとなしいんだ?」
 たしかに、シャターンはセイバーズのファンからは「静かな秘密情報部員タイプ」と呼ばれ、点は取るけど覇気がない選手と思われているのだ。シャターンがセイバーズでもキャプテンらしさを発揮していたら、ドゥルーリーをキャプテン候補として獲得する必要もなかったかもしれない。03/04シーズンは、セイバーズのキャプテンは月替りだったが、シャターンの1回に対して、ドゥルーリーは2回キャプテンをつとめている。

 そんなわけで、昨年は、シャターンにとってはいいことのない年、まさに厄年だったようだ。チームで一番高給取りの彼に対しては、ファンの目もきびしく、トレードの噂も絶えない。その一方で、3月にトレードの噂が出たときは、「シャターン、行かないで」コールが巻き起こった。
 昨年10月に三十路に突入した彼は、ロックアウト中は母国で遊んでいた、いや、自主トレに励んでいたが、ついにスロバキアのチームでプレーすることを決めた。今年に入って、早速大活躍しているらしい。年俸が高くなりすぎた選手は出ていくのが貧乏チームの常なので、いつまでセイバーズにいるかはわからないが、とりあえず、今年はよい年になることを祈る。



映画「海猫」とハーディの文学 05/1/10

 昨年公開された森田芳光監督の「海猫」。原作は読んでいないが、映画を見ると、まるでトマス・ハーディの小説のようなので驚いた。
 ハーディは19世紀後半のイギリスの作家。ロマン・ポランスキー監督の「テス」、マイケル・ウィンターボトム監督の「日陰のふたり」と「めぐり逢う大地」はいずれもハーディの小説、「ダーバヴィル家のテス」と「日陰者ジュード」と「カスターブリッジの町長」の映画化。ほかには、ジョン・シュレシンジャー監督の「遥か群衆を離れて」がある。
 ハーディの小説の特徴は、古い因習に縛られた田舎で、新しい価値観にめざめた主人公が苦悩するというもの。特に「ダーバヴィル家のテス」と「日陰者ジュード」は、精神的な人物と肉体的な人物の対立や、豊穣だが因習的な田舎と都会的だが不毛な人物の対立が色濃く描かれている。
 たとえば、「テス」では、ヒロインのテスをめぐる2人の男、精神的なエンジェルと肉体的なアレックの対立がある。エンジェルはもともと都会育ちで、田舎に理想を見いだし、そこでピュアな美しさをもったテスに恋をする。2人は結婚するが、テスは実は、金持ちの息子アレックにレイプされたという過去があった。テスにピュアな理想を見ていたエンジェルはショックを受け、テスを捨てて遠くへ行ってしまう。エンジェルが自分の間違いに気づいて戻ってきたとき、テスはすでに取り返しのつかない悲劇に巻き込まれていた。
 「ジュード」の主人公ジュードは、大学に行きたいと思うインテリ青年である。しかし、田舎で貧しい生活を強いられている彼は、遠くに見える大学の建物を眺めるしかない。彼は田舎に根を下ろす肉体的な女性と結婚するがうまくいかず、彼女と別れたあと、精神的な女性シューと出会う。精神的なジュードとシューの出会いはうまくいくかに思われたが、2人の行く手には悲劇が待ち構えている。
 森田芳光の映画「海猫」は、登場人物が、精神的で都会的な人物と田舎に根を下ろした肉体的な人物に分けられること、そして、前者が悲劇的な結末を迎えるところがハーディの小説によく似ている。森田監督の映画は、「模倣犯」に「2001年宇宙の旅」のパターンが見られたように、どこか欧米の文化の影響を受けたようなところがあるから、「海猫」を映画化するにあたって、森田監督がハーディの小説、あるいはその映画化を参考にしたとしてもおかしくない。実際、伊東美咲のヒロインはテスのようにピュアな美しさをもち、彼女と仲村トオルはシューとジュードのようなカップルなのだ。そして、佐藤浩市の存在感は、「カスターブリッジの町長」に代表されるような、宿命を背負った男の力強さを感じさせる。



ブーリンの壁 05/1/7

 タンパベイ・ライトニングのゴーリー、ニコライ・ハビブーリンはその鉄壁の守りから、「ブーリンの壁」と呼ばれている。これがベルリン(バーリン)の壁のシャレだということに、どれだけの人が気づいているだろうか。そもそも、ベルリンの壁なんて、若い人には理解できないかも?
 で、今回は、ベルリンが東西に分断されていた時代を描いたコメディ映画を2本、ご紹介。
 まずは、昨年公開されたドイツ映画「グッバイ、レーニン」。コチコチの社会主義者の母親が意識不明に陥っているうちに、ベルリンの壁崩壊。意識を取り戻した母親がそれを知ったら、病状が悪化して死んでしまうかもしれない。そこで、息子が必死に壁崩壊を隠そうと、東ドイツのニュース番組を捏造したり、東独時代の缶詰を探しまわったり……。
 母と息子、そして周囲の人々のふれあいがほのぼのとして暖かく、過去に存在した東ドイツという国とその国民に対しても敬意を忘れない、とてもいい映画だと思ったのだが、東独出身の映画ジャーナリストの中には、「バカにしてる!」と激怒する人もいたとか。でも、とっても楽しくて、最後はほろりとするいい映画だと思う。
 この映画の中で、窓の外にコカコーラの大きな広告が現れて、主人公があわてふためくシーンがあるのだが、コカコーラの社長令嬢と東独の青年が恋に落ちる映画がビリー・ワイルダー監督の「ワン・ツー・スリー」だ(「グッバイ、レーニン」のコカコーラはこれを意識していると思う)。
 1961年のアメリカ映画で、東西ベルリン間の行き来が比較的自由だった頃の話。検問所でちょっとあいさつするだけで、簡単に出たり入ったりしている。
 主人公はコカコーラのベルリン支社長で、ソ連にコカコーラを売り込もうと必死になっている。そんなとき、アトランタから社長令嬢が訪れ、支社長がお目付役に。だが、目を離したすきに、令嬢は東独のコチコチの共産主義者の青年と恋に落ち、結婚してしまう。しかも、アトランタからは社長が来る予定。なんとか結婚をなかったことにしようと奔走する支社長。ところが、令嬢が妊娠していることがわかり、計画変更、と、東西ベルリンをまたにかけたドタバタ喜劇が展開する。
 コチコチの共産主義者と自堕落な資本主義者というのはよくあるパターンだが、この映画はその両方に対する風刺もきいていて楽しい。今の目で見ると、セクハラのようなところもあるが、それはまあ、40年以上も前の映画だということで。ラストシーンが笑えます。



映画「哀愁のシェリー」とリーフス 05/1/5

 こんな映画があったの、ご存じですか。友人から、昔、こういう映画を見たと聞いたのですが、私は題名は記憶にあるものの、見た記憶はなし。
 1971年の映画で、原題は「Face Off」。「フェイス・オフ」といえば、今じゃニコラス・ケイジのアクション映画だけど……。
 で、ストーリーはというと

「ビリー・デューク(アート・ヒンドル)は、アイス・ホッケーの花形選手としてカナダ・ジュニア決勝戦に進出し、決勝ゴールで国中を沸かせた。その祝賀会で、ポップ・ロックの人気歌手シェリー・ネルソン(トルディー・ヤング)に会った。そして、豊かな金髪が肩で揺れる、美しいシェリーに惹かれた。やがて、ドラフト第1位のビリーは、12万ドルという破格の契約金で“トロント・メープル・リーフス”に入団し、大物ルーキーとして期待を集めた。2年連続下位のリーフスを建てなおすために、猛練習にはげんだ」(キネマ旬報DataBaseのあらすじ冒頭部分)。

 ドラフト1位というのは、多分、1巡目ということだと思いますが(さもないと、リーフスが前年最下位ということに)、2年連続下位というのは、要するにアレですな、悪名高い当時のオーナー、ハロルド・バラードが自分勝手やってリーフス低迷の時代が続いたという……。
 リーフスは67年に優勝したあと、共同オーナーの1人だったバラードが経費節減のために二軍にあたる2チームとの提携をやめてしまい、そのときから低迷が始まったそうです。この映画の翌年にあたる72年にはバラードは単独オーナーとなり、彼の独裁が始まります。以後、リーフスはますます低迷を続け、バラードの恐怖政治は彼が死ぬ90年まで続き、その間、選手はみんなリーフスにだけは行きたくなかったとか(だろーねー)。
 キネ旬DBのあらすじを読むと、映画の結末は不吉。リーフス・ファンにとってもこれは不吉な映画になってしまったのかもしれない。
 破格の契約金が12万ドル(それもカナダドルでしょう)というのも時代です(今は米ドルで150万だって)。
 この映画、ビデオになっているのでしょうか。ご存じのかた、教えてください。

「哀愁のシェリー」
Face Off
1971 america



The Cup Visits Buffalo 05/1/4

 04年夏、バッファローにスタンレー・カップがやってきた。7月31日にはタンパベイ・ライトニングのキャプテン、デイヴ・アンドレイチャクが、8月1日にはアソシエート・コーチのクレイグ・ラムゼイがバッファローの友人たちにカップを披露したのだ。
 アンドレイチャクは82年のセイバーズのドラフト1巡目の選手で、93年にメイプルリーフスにトレードされたあともバッファロー郊外に住み続けている。特別に2日間、カップとすごすことを許された彼は、7月30日には故郷のハミルトン(カナダ・オンタリオ州)を訪れ、翌31日にバッファローへやってきた。
 アンドレイチャクはまず、バッファローの病院を慰問、それから、セイバーズの選手が試合後に訪れるバーをいくつかまわった。パーティでは名物バッファロー・ウィングがふるまわれ、夫人のスーは「バッファロー・ウィングはどこへ行ってもベスト」と言った(バッファローのウィンガーはどこに行ってもベスト、という意味がかけてある)。
 その後、カップはアンドレイチャクの自宅に運ばれ、セイバーズ時代のチームメイト、ダリル・シャノン、グラント・レドヤード、マシュー・バーナビー、ロブ・レイも加わり、パーティは午前4時半まで続いた。
 翌8月1日は、クレイグ・ラムゼイがカップと1日をすごした。ラムゼイは今はバッファローに住んでいないが、セイバーズで14年間プレーし、バッファローには22年間住んだ彼は、ぜひともバッファローの友人たちを訪ねたいと思った。ラムゼイはまず、エリー湖のそばのゴルフ場にカップを持参、息子たちとゴルフをしたり、チャリティの募金したりした。夜はバッファローで400人を集めたパーティが開かれ、セイバーズ時代のチームメイト、ドン・ルース、ダニー・ゲア、ラリー・キャリエール、デレク・スミスも参加した。

 以上は「Hockey Hall of Fame」サイトの「Stanley Cup Journals 2004」の記事をもとにしてまとめたもの。このサイトにはカップからウィングを食べている写真など、写真もいくつか掲載されている。以下は補足。

 デイヴ・アンドレイチャク(アンドルチャックが正しい発音なのだが、慣例に従います)はリーフスにトレードされたあと、デビルズ、ブルーインズ、アバランチとチームを移籍し、00/01シーズンに再びセイバーズに戻ってきた。
 長いキャリアと優秀な成績をもつ彼だが、巡り合わせが悪く、カップ獲得どころかカップ・ファイナルにも出場できなかった。00/01シーズンもプレーオフは2回戦敗退、ハシェックがブチギレしてトレード強要、ホールドアウトで1シーズン出場しなかったキャプテンのペカもトレードせざるを得ず、という状況にあって、アンドレイチャクはセイバーズで選手生活を終えたいと、残ることを希望した。しかし、破産に向かっていたチームは彼を解雇。UFAでライトニングに入り、やがて、トートレラ・ヘッドコーチにキャプテンに指名されることになる(アンドレイチャクはそれまで一度もキャプテンをつとめたことがなかった)。
 ライトニングに入ったとき、チームはプレーオフにもろくに出たことがない弱小チームだった。それまでに在籍したチームはどこもプレーオフの常連で、アンドレイチャクはいつもカップのことを考えていたという。しかし、ライトニングに移ったとき、人生の目的がカップから別のものに変わったのだそうだ。それが3シーズン目にしてカップ獲得。ほしいものへの執着をやめたとき、ほしいものが手に入るーーまるでおとぎ話のような話だ。
 トートレラHCとアンドレイチャクはセイバーズ時代、ACと選手の関係。トートレラはセイバーズの二軍にあたるロチェスター・アメリカンズでHCとしてチームを優勝に導いている。トートレラとライトニングの選手たちはときにぎくしゃくしたときもあったが、そのとき、間に入ってHCと選手の仲をとりもったのがACのラムゼイと、そしてアンドレイチャクだった。
 04年10月、ロチェスターでセイバーズ対ライトニングの試合が予定されていた。ロックアウトがなければ、ロチェスターに縁のあるトートレラやサリッチがここに来たのだったが……。



ブルー・アンド・ゴールドの時代 05/1/2

 セイバーズのジャージの色は今は赤と黒だが、1970年の創設から96年まではブルー・アンド・ゴールドと呼ばれる青と黄色だった。
 ホーム・ジャージは白地に青と黄色の線、アウェーは青地に黄色い線。胸のロゴマークも今と違って、バッファローの全身像の下にサーベルが2本交差しているというもの。12月4日のチャリティOB試合でも、セイバーズOBはこのジャージを着てプレーした。
 96年春、アリーナが長年使われたオードから新しいHSBCアリーナに移ったときに、ジャージとロゴマークも変わった。60年以上の歴史をもつオードは最近、売却取り壊しが決まったようで、「思い出にレンガのひとつもくれ」というファンやホッケー経験者があちこちにいるらしい。
 ファンの間では、現在のジャージよりもブルー・アンド・ゴールドの方が断然、人気が高い。今のジャージは、ロゴマークは山羊かと言われ、赤地にサーベルが交差するサード・ジャージ(古いロゴのサーベルを生かしたもの)はバーベキュー・ジャージと呼ばれてとにかく評判が悪いのである。
 ブルー・アンド・ゴールドの時代を知らない私はサード・ジャージも含めて、今のジャージの方がおしゃれでいいと思っていたのだが、あの時代の写真や記事を見るにつれて、古いジャージの方がいいと思うようになった。
 四半世紀の歴史はあなどれない。栄光のフレンチ・コネクション・ラインも、90年代初頭の強力なライン、モギルニー/ラフォンテーヌ/アンドレイチャクもこのジャージでプレーしたのだ。ハシェックも4年間このジャージを着た。
 セイバーズが優勝してしまうコメディ映画「ブルース・オールマイティ」の中で、ジム・キャリーがブルー・アンド・ゴールドのジャージを着ているシーンの写真がある。私の手元にある3枚のうち、1枚は袖の11番がはっきりと見える。セイバーズの11番といえば、それはジルベール・ペローしかいない。
 ペローは70年のドラフト全体1位でセイバーズに入った。以後、どこにも移籍することなく、生涯セイバーズを通して87年に引退、その後、殿堂入りし、11番はセイバーズの永久欠番になっている。選手としてはラフォンテーヌやハシェックの方が上かもしれないが、セイバーズの心といえる選手はやはりペローだ。
 キャリーがペローのジャージを着ているシーンは映画からはカットされてしまった。この映画はホッケーのシーンがもっとあったらしいのだが、結局、ほとんどカット。DVDの特典映像にはカットされたシーンが多数収められているけれど、ホッケー・シーンはない。
 思えば、映画が撮影された2002年はちょうど、セイバーズが破産し、移転か消滅かと思われていた時期だった。トロント近郊に生まれ、セイバーズが誕生したとき6歳だったキャリーは、映画の中にセイバーズを残したいと思ったのではないか。映画の中には現在のジャージを着た選手が登場し、キャリーはペローのブルー・アンド・ゴールドのジャージを着て応援する。でも、結局、03年3月に新しいオーナーが決まり、バッファローにチームが存続することが決まったので、ほとんどカットしたのではないか。カップ・ファイナルに2度出ているものの、1度も優勝していないセイバーズは、本当は映画の中で先に優勝してはいけないのである。それをああいうふうにして出したのは、セイバーズが消滅するならせめて映画の中で、と思ったのではないかと、勝手に想像している。



新春新着映画紹介 05/1/1

あけましておめでとうございます。

今日はこれから公開される映画3本をネタバレなしでご紹介。


「ネバーランド」(1月15日公開)

 泣けます。「ピーターパン」の作者ジェームズ・バリが父親を亡くした子供たちとのふれあいの中で「ピーターパン」を生み出していく物語。もともと、私は「ピーターパン」って、いつも泣けてしまうんですね。どこで泣けるかって? それ言ったらネタバレだわ。うーん、「ET」でも泣けたし、榊原郁恵のミュージカルでも泣けたし、最近のあまり出来のよくない実写映画の「ピーターパン」でも泣けたな。とにかくハンカチ持参でぜひ。


「ナショナル・トレジャー」(3月公開)

 独立宣言書の裏に宝の地図があるという、まったく、ハリウッドって何でもありね、と、見る前はあきれていたのですが、見てみたら、これが傑作。監督はジャマイカのボブスレー・チームを描いた「クール・ランニング」のジョン・タートルトーブですが、やたらアクションばかり連発の最近のハリウッド大作と違って、知的に楽しめる娯楽映画です。独立宣言書がからんでいるということで、ワシントン、フィラデルフィア、ニューヨークといった町の歴史名所が出てきたり、英単語にいくつもの意味が隠されていたりと、歴史と言葉遊びの両方を楽しみながら宝探しができます。
 俳優もショーン・ビーンとか、ハーヴェイ・カイテルとか、ジョン・ヴォイトとか、脇役がグー。むやみやたらに人を殺したりしないのもディズニーらしくてグー。普通だったらエジプトのピラミッドでやりそうな話を建国まだ200年余りのアメリカでもできるってのが一番グーな映画でした。


「エターナル・サンシャイン」(3月公開)

 コメディ路線とシリアス路線の両方に出演しているジム・キャリーの、これはシリアス路線の作品。ふだんはギャラが4千万ドルの彼が、娯楽映画ではなくアート系映画ということで1千万ドルで出演したとか。ギャラを減らして出た甲斐のある傑作です(高いギャラをキープしてるとバカ大作にしか出られなくなるのよ)。
 記憶の迷路にさまよいこむような映画なので、詳しいことは書きません。でも、記憶を失っても愛は残るのか、とか、いやなことを忘れるより本当は何をすべきなのか、といったことを考えさせられました。映画マニアはもちろん、カップルにもおすすめ。



ラフォンテーヌのチャリティOB試合 04/12/31

 現在、NHLはロックアウト中なので、セイバーズの試合は行なわれていない。でも、本拠地のHSBCアリーナでは、さまざまなイベントが行なわれている。
 なかでも、12月4日に行なわれたパット・ラフォンテーヌ主催のチャリティOB試合は、セイバーズ・ファンを楽しませた。
 70年代に活躍した栄光のフレンチ・コネクション・ラインの3人、ジルベール・ペロー、ルネ・ロベール、リック・マルタンがラインを組み、クレイグ・ラムゼイ、デイル・ハワチャクなどのセイバーズOB、ミラクル・オン・アイスのメンバーだったマイク・エルジオニとジム・クレイグ、俳優のマイケル・J・フォックスなど多彩な顔ぶれが参加。「バック・トゥ・ザ・フューチャー」シリーズでおなじみのフォックスはカナダ人で、ホッケー経験がかなりあるらしい。
 試合はセイバーズOBとその他OBで行なわれ、1ピリと2ピリではラフォンテーヌはその他OBで参加、途中でペローとトレードされて3ピリはセイバーズOBでプレー。ゴーリーのクレイグがスケーターになったり、マスコットがゴールネットを守ったり、武闘派ロブ・レイとハンマーと呼ばれたデイヴ・シュルツの乱闘のお芝居まであったり、最後はペローのゴールで7対7の同点で終わるなど、ショーとして演出された楽しいものだったようだ。
 ラムゼイはタンパベイ・ライトニングのアソシエート・コーチとして、6月にスタンレー・カップを獲得。選手時代にはカップを取れなかったので、初の栄冠。ロッカールームで優勝リングを披露していた。夏にはカップをもってバッファローを訪れている。
 と、見てきたように書いているが、もちろん、これは公式サイトやバッファローのメディア、BBSのファンの書き込みをもとにしたもの(行きたかったなあ)。Buffalo Sabres公式サイトには記事のほかに写真、ビデオもアップされています(なぜか、うちのPCではビデオが見られない)。

 12月28日、HSBCアリーナで、セイバーズと提携しているAHLのチーム、ロチェスター・アメリカンズ(通称アマークス)の試合が行なわれ、なんと、18000人近い観客を集めた。これはAHL史上8位の観客動員数だとか。
 11月にもアマークスはここで試合をしているが、このときも12000人以上の観客を集め、セイバーズより入るなどと陰口をたたかれたりもしたが、18000人近くというのはほぼ満員の盛況。よっぽどファンはホッケーに飢えていたのである。
 アマークスはシーズン開幕直後はなかなか勝てず、最下位に沈んでいたが、11月に入って突然、ゴーリーのミラーが絶好調、期待の新人ファネクも本領を発揮し始め、この2人が週間MVPに選ばれ、チームの順位も上昇、12月29日にはついにもディヴィジョン首位に躍り出た。
 この日の試合も、ミラーがシャットアウト、昨季セイバーズで活躍したロイが1ゴール1アシスト。2対0でエドモントン・ロードラナーズに快勝した。
 バッファロー周辺はホッケーが盛んな地域で、ホッケー選手の育成にも力を入れている。なのに、セイバーズはお客の入りが悪く、NFLのバッファロー・ビルズの方が人気がある(なのに、ロスに移転の噂)。そのビルズは現在、プレーオフぎりぎりの位置にいるのだが、年明け早々に勝率9割3分3厘でダントツ首位のピッツバーグ・スティーラーズとあたる予定だ。



なぜかピッツバーグ 04/12/30

 80年代に好きだった2本の映画「ロボコップ」と「ヴィデオドローム」をDVDで久しぶりに見たら、なぜか、どちらもピッツバーグがからんでいた。
 「ロボコップ」はデトロイトが舞台なのだが、実際に撮影したのは主にダラス、そして一部がピッツバーグだった。映画の前半、主人公の警官マーフィが悪人に殺されるシーンと、ラスト近くのクライマックスがそうだ。閉鎖されて廃墟と化した製鉄所だったのだ。
 映画館で見たとき、こんな場所をよく見つけてきたものだと感心したが、ある種のSF的な美にあふれていた。
 ダラスで撮影したのは、デトロイトは古い町で、SF的な風景がなかったかららしい。壊す予定の町をじゃんじゃんぶっ壊すわ、ガソリンスタンドを爆破するわ、で、最初は消防署に出ていけと言われたけど、最後はもう、消防署も警察もあきらめていたというから面白い(DVDの音声解説より)。
 DVDの音声解説は撮影の裏話が聞けるので、私は大好きである。この映画は1千万ドルちょっとというあまり高くない予算で作られたので、あちこちにお金をかけない工夫をしているのも解説や特典映像でわかった。CGなどなく、合成も金がかかるので使えない、その中で、あのカニのようなロボットを動かしたのだからエライ!
 でも、「ロボコップ」の舞台がダラスではピンと来ない。やはりデトロイトでなければならない。あそこは自動車工場のイメージがあって、だから、最近の「アイ、ロボット」も本当はデトロイトにしてほしかった。ロボットがずらっと並んでいるシーンなんか見ると、ほんと、惜しいと思う。でも、一度ロボットもので使われてしまったからシカゴにしたのだろう(だけど、撮影はヴァンクーヴァー)。

 「ヴィデオドローム」はトロントに拠点を置くカナダの映画監督デイヴィッド・クローネンバーグの初期の作品である。今でこそメジャーになって、カナダの、という感じがしなくなったクローネンバーグだが、当時は完全にカナダの監督で、この映画もトロントが舞台。過激な映像を追求する男がビデオの妄想に取り込まれていくというグロテスクな(でも、魅力的な)ホラーである。で、彼が手に入れる拷問と殺人のビデオの出所が、なぜかピッツバーグ。もっといかがわしい場所かと思ったらピッツバーグ、と、男は驚くのだが、それでもやっぱり、どこか、そういうイメージがある町なのかなあ、と思ってしまうのである(「ロボコップ」の廃墟と化した製鉄所の地下とかで作っているのだろうか)。
 それはともかく、80年代半ばにこの映画を見た私は、以来、トロントというと、この映画を思い出してしまう。ピッツバーグの住人も、トロントの住人も、迷惑な話かもしれないが。



バッファローは美しい川 04/12/29

 ニューヨーク州バッファローは五大湖のひとつ、エリー湖のほとりにある町である。ジム・キャリーの映画「ブルース・オールマイティ」の舞台にもなった。
 プロ野球のバファローズとはもちろん、関係ない(と思う)。
 では、バッファローには昔、野牛のバッファローがいたのだろうか。
 答はノー。この地域にバッファローは、実はいなかった。
 それでは、なぜ、町の名前がバッファローになったかというと、昔、ここにやってきたベルギー人が、そばを流れるナイアガラ川をフランス語で「美しい川」(beau fleuve)と呼んだのだ。それを聞いたインディアンがbouf-floと発音。それがイギリス人にはバッファローと聞こえたのだという。
 バッファローにはセイバーズというNHLのホッケーチームがある。さーべる倶楽部というタイトルはそこからつけました。