シングルである人間という存在
「A Single Man」
クリストファー・イシャウッド著
初版1964年
http://www.amazon.co.jp/Single-Man-Vintage-Classic/dp/0099548828/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=english-books&qid=1290794241&sr=1-1
ファッション・デザイナーのトム・フォードが監督し、主演のコリン・ファースがアカデミー賞にノミネートされたことで話題となった映画「シングルマン」(2009年製作、2010年日本公開)の原作である。初版は1964年、翻訳はまだない。
著者のクリストファー・イシャウッド(1904-1986)はイギリス生まれのゲイの作家で、若い頃にヒトラー台頭期のベルリンですごし、その体験をもとにした「ベルリン物語」がのちにミュージカル「キャバレー」の原作となった。イシャウッドはアメリカで創作活動を続け、年の離れた若い同性の恋人を持ち、そして、ロサンゼルスの大学で教鞭をとっていたこともあった。
小説の舞台ははキューバ危機の1962年頃のロサンゼルス。イシャウッドの分身ともいわれる主人公ジョージは、大学で英文学を教えるイギリス人の大学教授である。最近、彼は同性の恋人ジムを自動車事故で失い、悲嘆にくれている。映画ではジョージの年齢は40代前半とされ、絶望したジョージが自殺を決意し、今日を人生最後の日にしようとする物語に変えられているが、原作のジョージは58歳で、しかも、彼は自殺など考えてはいない。
それでも、彼の一日は絶望から始まる。小説の冒頭、ジョージが「彼(he)」ではなく、「それ(it)」という代名詞で表現されているのにまず驚く。朝、目覚めた彼(いや、むしろ、それ)は、浴室の鏡に向かい、自分を認識して初めて、「彼」となる。
心ここにない喪失感は、「彼」となってからも続く。キッチンの狭い入口で、もはやジムとぶつかることなどないのだという認識。広い家には自分ひとりしかいないのだという認識。
原作のジョージのこうした喪失感、悲しみ、絶望をモチーフにして、トム・フォードはみごとな映画を作り上げた。全編に漂う死の影と、それでも世界は美しく輝いているという発見。スタイリッシュな映像と、出演者たちの的確な演技が、マイノリティであるゲイの大学教授の悲しい愛の物語をこの上なく美しい映画に結晶させていた。
しかし、原作を読むと、イシャウッドの描いた世界は映画ほど単純でないことに気づく。マイノリティの問題ひとつをとっても、原作はより複雑で奥が深い。
ジョージが住む家は、白人の中流家族が住む郊外の住宅地にある。白人の中流家族とはまさにマジョリティの典型であり、結婚もせず、子供も持たず、しかもゲイであるジョージのような人間の対極にある多数派だ。その上、彼はイギリス人である。ジョージは自宅の敷地にまで入り込んで騒ぐ子供たちに辟易し、キューバ危機で戦争を煽る政治家に怒りを感じ、核戦争に備えて核シェルターを買うことができる金持ちに憤りを感じる。戦争が始まれば、犠牲となるのは貧しい人々やマイノリティといった弱者であることは明らかだからだ。
その一方で、彼は冷静な大学教授でもある。英文学の講義で、オールダス・ハクスリーが小説の登場人物に「人を憎むのには理由がある」といわせたことについて、学生から「ユダヤ人の迫害にも理由があるのか、ハクスリーは反ユダヤ主義なのか」ときかれる。ジョージは、ハクスリーは反ユダヤ主義ではないと答えた上で、マイノリティとマジョリティについて、次のように語る。
「たとえば、そばかすのある人間は、そばかすのない人間にとってマイノリティではない。今、ここで議論しているような意味でのマイノリティではないんだ。では、なぜ、彼らはマイノリティではないのか。マイノリティは、それがマジョリティに対して、現実であれ想像上であれ、ある種の脅威になるときだけ、マイノリティとして意識される。そして、どんな脅威もまったくの想像上のものということはない。それは違う、という人はがここにいたら、自問してみるといい――もしもこの特定のマイノリティが、一夜にしてマジョリティになったとしたら、彼らはいったい何をするだろうか、と」(新藤訳)
迫害にも理由はある、ただし、それは間違った理由だが、それでも理由はある、と彼はいい、そしてさらに、人間はみな同じだと考えることが間違いであること、違いを認めることがたいせつであることを述べる。そして、マジョリティが悪でマイノリティが善だとする紋切り型の考えも批判する。
この場面は映画でも印象に残るシーンだったが、マイノリティとマジョリティに関する彼の柔軟な考え方は原作でじっくりと読んだ方がよりよく理解できる。そして、物語が進むにつれて、この小説がマイノリティについての単純な話ではないことがしだいに明らかになっていく。
タイトルの「A Single Man」とはどういう意味だろうか。普通に考えれば、それは「独身の男」であり、この小説にあてはめれば、恋人を失って「独り身になった男」である。しかし、同時に、この言葉には、「一人の人間」、「一人(シングル)である人間」という意味も含まれる。「シングルである」ということは、「孤独である」ということとは意味が違う。人間は究極的には一人であり、個である、その個人としての「シングルである人間」ということになる。
そう、人間は究極的には一人であり、個であるのだが、しかし、人間は一人では生きられないのもまた真実だ。どんなに人付き合いが下手で、ひきこもりになっている人でも、つながりのある人間はいるはずだ。人間は個であり、シングルであるのだが、常に他の人と結びつき、集団の中の一人になる。その集団がマイノリティである場合もあれば、マジョリティである場合もある。マジョリティに属している人も、究極的には個であるのだ。
小説の後半、非常に短い場面だが、印象的なシーンがある。近所に住む古いつきあいのイギリス人女性チャーリーの家へ行こうとしたとき、隣人が、家に来て私たちと一杯やりませんか、と誘いに来る。ジョージがゲイであることを承知で、彼を招いてくれたことを知った彼は、非常にうれしく思うが、チャーリーとの約束があるので、明日の晩はどうかという。すると隣人は、明日は来客があるので、と言葉を濁す。自分にクイアー(ゲイのこと)なところがあるのが客にわかると気まずいからだろう、とジョージは思う。しかし、この場面は、マジョリティにもさまざまな人がいて、一人一人が違う人間だということを示唆している。
女性の友人チャーリーと、ジョージの講義に感銘を受け、彼の話を聞きたがる男子学生ケニーは、映画の中でもジョージに次ぐ重要な人物だが、この二人も映画と原作では設定が違っている。チャーリーは第二次大戦終戦後、米兵と結婚してアメリカに来たイギリス人で、夫とは離婚、一人息子は遠くへ行ってしまっている。彼女もまた、シングルになってしまった人間なのだ。また、映画では彼女はジョージの元恋人ということになっているが、原作では彼女はジョージとジムを見守ってきた女性である。ジョージがチャーリーに会いにいくとき、そこには常にジムの影がつきまとう。ジムを失った喪失感と悲しみをジョージが最も感じるのは、チャーリーと会うときである。
映画ではジョージを慕う学生のように描かれたケニーは、原作では日系人の恋人がいる。彼女、ロイスは戦争中、家族とともに日系人の強制収容所に入れられ、そのトラウマが二人の上に影を落としている。迫害されるマイノリティのテーマがここで小さく変奏され、恋人同士ではあっても究極的にシングルである二人の姿が垣間見える。
一日の最後に、ジョージはある風景を思い描く。北に数マイル行ったところにある岩浜では、引き潮になると小さな水溜りがいくつもできる。そのひとつひとつにジョージは知り合いの名前をつける。潮が満ちてくれば、ひとつひとつの水溜りは海の中に沈んでしまう。水溜りの水は大洋の水と同じだろうか。
このくだりはあまりにも美しく、さまざまな解釈が可能であり、著者は答えを出さない。個々の人間の存在とはいったい何なのか。究極的にはシングルである存在であり、そして、一個の肉体である人間とは。恋人を失った悲しみや、マイノリティの問題は、いつしか、普遍的な人間の存在についての物語となる。その過程を、一字一句、かみしめるようにして読まなければ、このくだりの美しさは味わえない。文学とは、そういうものなのだと思う。
(新藤純子)