2015年2月27日

BookJapan書評「最初の人間」

カミュの遺作『最初の人間』を読む
『最初の人間』
アルベール・カミュ著 大久保敏彦訳 新潮社(1996年)
http://www.amazon.co.jp/%E6%9C%80%E5%88%9D%E3%81%AE%E4%BA%BA%E9%96%93-%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%AB-%E3%82%AB%E3%83%9F%E3%83%A5/dp/4105015079/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1346255111&sr=1-1

 アルベール・カミュの未完の遺作であり、自伝的小説である『最初の人間』が映画化され、絶版になっていた本書が10月に文庫で復刊されることになった。
 カミュといえば『異邦人』や『ペスト』のような代表作はいまだに多くの読者をひきつけているが、未完の小説というよりは書きかけの草稿といった方が適切な『最初の人間』は日本ではあまり読む人もいなかったのか、絶版になっていたようだ。中学時代にカミュの愛読者であった私も恥ずかしながら本書は読んでおらず、今回は図書館のお世話になった。新潮文庫は絶版速度がことのほか速いので、文庫が出たらすぐ買うつもりである。
 本書はカミュの自伝的小説ということで、主人公ジャック・コルムリイの体験はかなりの部分が著者の体験を反映しているらしい。第一次世界大戦が始まる直前にアルジェリア移民の息子として生まれたジャックは、生後1年もしないうちに父親を戦争で失う。母親は祖母と叔父のもとに身を寄せて2人の息子(ジャックと兄)を養うが、兄についての話はあまり出てこない。ジャックの家は祖母も叔父も母親も読み書きができず、母親は聴覚障害者で、叔父にも障害がある。教養もなく貧しい彼らは、子供は小学校を出たら働くものだと思っていて、ジャックもそうなるはずだったのだが、彼の優秀さを認めた小学校教師が奨学金を得てリセに進学することを薦め、祖母たちを説得してくれる。
 カミュ自身、このような貧しい家に生まれ、小学校教師ジェルマンのおかげでリセに進学し、大学まで進んで作家になったという背景がある。本書の最後に、カミュとジェルマンの間でかわされた2通の手紙が掲載されているが、こうした運命の偶然がなければ、カミュはアルジェリアの貧しさの中に埋没してしまったのかもしれない。
 本書には個人の努力とか自己責任とかいった言葉ではどうにもならない過酷な世界が描かれている。生きるためにただひたすら労働に従事する人々。トイレに落ちた硬貨を探して手を突っ込む祖母。きびしい労働に疲れ、休みたくなるたびに手を傷つけていた叔父。生活するだけで精一杯なので信仰についてもいいかげんになる現実。こうしたぎりぎりの生活を強いられている人々に、自己責任や個人の努力などという言葉は通用しない。
 フランスの植民地であったアルジェリアでは、アラブ人などの先住者がフランスからの移民に凄惨な攻撃を加えていたということも書かれている。フランス人も同じことをしていたとも書かれてはいるが、ジャックが聞かされた殺戮や陵辱の事件に加え、アルジェリア独立をめぐるテロ事件もあり、ここが血と暴力と背中合わせの世界であることを示唆している。
 そのような世界で育ったジャックは奨学金を得てリセへ行き、その後、おそらくフランスに渡って成功したのだろう。「第一部 父親の探索」は40歳になった彼がアルジェリアに戻り、記憶にない父親がどんな人だったかを探ろうとする。これが枠物語となり、その中で追憶の子供時代、特に小学校時代が描かれる。この追憶の部分の生き生きとして鮮やかな描写の数々が本書の魅力だ。
 一方、父の探索をする現在のジャックは、母親をはじめ、さまざまな人を訪ねてまわるが、父親に関してはほとんど得るところがない。結局、父親については何もわからないまま終わる。その理由として、彼は次のように語る。

貧者の記憶というものはもうそれだけで裕福な者の記憶ほど充実していない。なぜなら貧者は滅多に生活している場所を離れないので空間における指標が少ないからだし、また一様で、灰色の生活の時間の中にも指標が少ないからである。もちろんこの上なく確実だと言えるような心の琴線に触れる記憶もあるのだが、心が苦しみや労働ですり減ってしまうので、疲労の重みの下で、それもすぐに忘れられてしまうのだ。失われた時が蘇るのは裕福な者のうちでしかない。貧者にとっては、失われた時はただ死に向かう道の漠とした道標だけである。それに、首尾よく耐えていくためには、あまりたくさんの記憶は必要ない。(p.78)

 読み書きもできず、貧しさに追われて働くだけの毎日では、記憶は失われてしまうのである。記憶に残らなければその人は存在しなかったに等しくなる。こうして人々は貧しさの中に埋没し、その存在を失っていくのだ。ジャックも、そしてカミュも、小学校教師の助けがなかったら、貧しさの中に消えていったのかもしれない。
 しかしながら、カミュの描くジャックの少年時代のエピソードは貧しくも豊かな体験であり、太陽の熱さや風の強さ、甘いお菓子や図書館で借りた本のインクの匂いといった五感で感じる体験をはじめ、学校や家庭や近所で起こるさまざまな出来事や事件が生き生きとした筆致で描かれている。書きかけの草稿であるためにそれらは断片的ではあるが、思わず読みふけってしまうほどの豊饒な語り口である。しかし、こうした貧しい世界の豊饒さはカミュがこの世界からステップアップしたから生まれたものなのであり、そうでなければ失われてしまったものなのだろう。
 別の世界へステップアップすることによって、人は新しい世界に違和感を持ち、同時に新しい世界を知ったことでそれまでの世界にも違和感を持つ。
 「第二部 息子あるいは最初の人間」では、リセに進学したジャックが描かれるが、バカンスというものを知らない祖母は夏休みに孫が遊んでいるのはけしからんと考え、アルバイトをさせる。ジャックの仕事はビルの中の事務所の手伝いである。真夏の太陽を奪われた場所で、額に汗して働くのではなく、仕事を右から左に動かすだけの作業にジャックは疑問を感じる。

現実に、長い夏は、ジャックにとって、薄暗く光のない日々とつまらない仕事のために使われてしまった。「何もしないでいるわけにはいかないんだよ」と祖母は言っていた。ジャックがまさしく何もしないでいるという印象をもったのはこの事務所の中であった。彼にとって海やクーバでの遊びは何ものにも代えがたかったが、彼は働くことを拒否はしなかった。しかし真の労働というものは、彼にとっては、例えば樽工場での仕事のようなものであり、長い筋肉労働、一連の巧みで正確な動作、あるときはきつくあるときは軽やかな手の動きであり、その努力の結果が現れるのが目に見えるような労働であった。つまり、亀裂が一つとしてなく、立派にできあがった新しい小樽、そのとき労働者たちはじっとをそれを眺めることができた。(p.233)

 彼はまた、孫に短期の仕事をさせるために祖母が嘘をついたことを悩むのだが、それも含めて、このエピソードは読み応えがある。
 リセに進学することで、極貧の下層社会にいたジャックは裕福な中流の世界に入っていくが、そこはジャックの下層社会の常識がまるで通用しない別世界である。そのために彼は誤解を受けることもある。リセで初めて中流の世界に触れ、その世界では自分は異邦人であることを感じ、また、中流の世界を知ることで逆に自分の世界に対しても異邦人であると感じるようになる。この感覚は、下の社会から上の社会へとステップアップした経験を持つ者なら痛いほどわかるはずだ。
 カミュにとって最初の人間とは、文化的資産を持たない貧しい両親のもとに生まれ、無から出発する人間のことである。かつて、日本もそのようにして生まれ、ステップアップする人々が多数いた時代があった。それから一億総中流時代を経て、今は下流社会やワーキングプアと呼ばれる貧しい人々が問題になっている。カミュの言う最初の人間が、これからの日本には多く生まれ、そして多くが無名のまま貧しさの中に埋没していく、そういった時代になったとき、本書は新たなリアリティを持つのではないかと思う。
 父の探索で物語を始めたカミュだが、彼の、そしてジャックの心の中に大きな存在としてあるのは、やはり母だ。補遺のノートで、カミュはこう書いている。

もしこの本が最初から終わりまで母親に宛てて書かれたとすれば、理想的だ――そして最後になって読者が彼女は文盲であることを知れば――そうだ、それこそ理想的なのだが。(p.268)

 小説の冒頭にも「仲介者:カミュ未亡人 この本を決して読むことができないであろう、あなたに」という言葉がある(p.11)。母に対して書かれた物語が、読み書きのできない母には決して読まれないという不条理が最後に現れる作品となったのかもしれない。
 ちなみに、イタリア人監督ジャンニ・アメリオによる映画化(仏伊アルジェリア合作)も最終的には母への思いにすべてが集約されている。映画は第一部のエピソードの数々を巧みにアレンジし、その上で、アルジェリア問題に関するカミュの態度とノーベル文学賞受賞時の「正義より母」という発言をもとにした映画独自のフィクションで全体を完結させている。美しい映像と手堅い演出、魅力的な演技陣と、なかなか見応えのある佳品に仕上がっており、原作と映画が互いを補完しあうような面も感じられるので、原作と映画の両方を味わってほしいものだ。
(新藤純子)